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家督を嫡男の元長に譲って隠居した

天正10年(1582年)末、家督を嫡男の元長に譲って隠居した。これは、秀吉に仕えることを嫌ってのことであるとされている。そして吉川氏一族の石氏の治めていた地を譲り受け隠居館の建設を開始した。この館は後に「吉川元春館」と呼ばれたが、元春の存命中に完成することはなかった。

その後、毛利氏は秀吉の天下取りに協力し、天正13年(1585年)、弟の小早川隆景は積極的に秀吉の四国征伐に参加したが、吉川軍は元春の息子である吉川元長が総大将として出陣するにとどまり、元春は出陣しなかった。

天正14年(1586年)、天下人への道を突き進む豊臣秀吉の強い要請を受け、また弟の隆景、甥の輝元らの説得により、隠居の身でありながら九州征伐に参加した。しかしこの頃、元春は化膿性炎症(癌とも言われている)に身体を蝕まれていた。そのため、出征先の豊前小倉城二の丸で死去した。享年57。
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元春という名は、吉川元春の先祖で、安芸に土着した毛利氏の勢力拡大に腐心した毛利元春と同名である。このことからも父・元就が元春に掛けた期待がうかがえる。
父・元就をしてその勇猛ぶりは、「我は戦では元春には及ばぬ」と言わしめたとされる。また、元就は元春が単なる勇将というだけでないことも見抜いており、「眼東南を見て、心西北にあり」と評したという。
熊谷信直の不器量なことで有名な娘を娶ったことでも有名である。勇猛で知られる熊谷信直の勢力を味方につけるための政略結婚であったと言われているが、その一方で自らを女色に溺れさせないように戒めるためであったともされている。

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2009年11月13日 13:59に投稿されたエントリーのページです。

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